大河ドラマしたい
大河ドラマ憧れがある。
大学時代からの友人との飲み会で、このブログの存在や今後の展望を話した。親や将来の嫁にも伝えることのないであろうこのプロジェクトを、この世界で打ち明けられる唯一の存在が彼らだ。
彼と彼女はとにかく優しい。日々の鬱屈から生まれる私の偏屈な暴論も優しく受け止め、最大限の同意をくれる。その優しさにかまけて更に喋りすぎてしまう。自分の感覚を文字化する為にブログがあるとすると、音声化できる彼らとの飲み会は凄く尊い。
その一方で、「あれが好き」「あういうの嫌い」を思いっきり話した後の気分は独特だ。圧倒的開放感が私を不安にさせる。普段ツイッターでもろくに呟けないヘタレの私が喋りすぎる事の危うさよ。ダムの決壊に近い放水。その紙一重の感覚はある種の悦楽であり、この悦楽を味わわせてくれる二人には感謝の念が堪えない。いつもごめんねありがとう。
今日のハイライトとして記録する。りななん、ふみかす、ゆるめるモ!、ようなぴ、バンもん!、ほぼほぼ。
そして今日の問題案件が大河ドラマプロジェクトである。
私は大河ドラマが大好きだ。現在は「おんな城主 直虎」が放映中で、もちろんどハマり中。柴咲コウ美人だよね。高橋一生不憫だよね。
このブログの最終目標を二人と探り合っていくうちに、私は自分の半生を大河ドラマにしたいと発していた。テーマ音楽は千住明だ、と。
狂気の沙汰とお思いだろうか。
もう一度あえて言おう。私の夢は「大河ドラマの題材」だ。
ここから先、途中下車は一切受け付けない。禁句は「なーにいってだこいつ」。さあレッツライド。
タイトル「馬と呼ばれた男(仮称)」。この壮大な大河ドラマの主人公である私役を演じるのが、今を時めく若手本格派ナンバーワン俳優、神木隆之介。
自分を誰が演じるか考えることは非常に重要である。実生活において「あ、今の俺をNHKがドラマにするときは神木隆之介だったな」と思い出すことが人生のモチベーションとなる。あくまでも私に神木が寄せてくるのだ。私が神木に寄せるのではない。
渋谷の居酒屋で私の目の前に座り、私の趣味談議に付き合ってくれる唯一の友人が菅田将暉・小松菜奈。こりゃ視聴率がとんでもないぞ。
神木・菅田・小松が渋谷で出会うことから物語が始まる。何かが生まれる予感するじゃん!何を成し遂げるのかはまだ未定。このドラマの脚本の為に実生活でも頑張ろうって気になってきた。
外堀の方は大型突貫工事で着々と埋まっていく。テーマ音楽千住明。馬が疾走し、昇り竜のような書体で縦書きのキャスト名が並ぶOP映像。「馬と呼ばれた男」紀行用どーもくん(馬の被り物)。神木がスタパ(=スタジオパークからこんにちは)に出演した際の秘蔵映像や高畑淳子との絡み。菅田の早期退場による「○○(←役名)ロス」なる社会現象まで想定済みだ。
30代以降は年齢に応じて主演俳優の交代も考えている。つまり神木を子役扱いする贅沢采配。
30代・・・森山未來
↑ここまでは既定路線。
(40代突入後、突如両腕がハサミになってしまった主演ジョニー・デップ編という悪ふざけについてはここできっちり葬っておく)
あぁ、楽しい!こんなに楽しい妄想が他にあるだろうか。外堀の豪華さよ。真田丸レベルの出城を作ってしまった。
自分のWikipediaページの構成を考える、といったお手軽妄想も得意だが、目の前の二人のおかげでこれまでにない壮大な妄想を作り上げることができた。
そして驚くなかれ。私はこの夜、前日からの二日酔いの影響で酒を一滴も飲んでいない。シラフで語っちゃったぜ。
この横暴を許す素晴らしき友には感謝せねば。それでこそ大河ドラマには不可欠な存在。
彼らのためにも、そして日々続く生活の微々たる向上心維持のためにも、大河ドラマプロジェクト、鋭意進行中です。
確立したい
「自我の確立」という便利な言葉を知った。
星野源のエッセイ「蘇える変態」を今更ながらつい最近買った。悔しいが非常に面白い。
読みやすい題材、言葉で、自虐・下ネタも多く、かつ「ゆる斬新」な切り口。そして命の危機に瀕した時期の作品だけに言葉の持つ説得力・重みをこちら側に想像させる。悔しい。何かで「星野源の魅力に屈しない女子会」みたいな記事を読んだが、その論議もわかる。そして全国民玉砕だろう。少なくとも私のような人間はあっさり屈した。もう国民みんな好きでいいじゃん。ってか嫌いになる要素が少ないんだもの。
その「蘇える変態」のなかで「この頃はまだ自我というものが確立されておらず…」みたいな文章を読み、なるほどいい言葉だと思ったのだ。
個人的にこの穀潰し期間を「自我の確立に充てた」と名づけることで正当化したい。
だが「自我」ってなんだ?という疑問がわく。あたりまえなのだが。
「自我」とは、、、ここで国語辞書の引用を持ってくるようなエッセイをよく見かけるが、私は自分で悲しくなるぐらい面倒くさがりの為引用しない。辞書に書いてあることぐらいだいたい想像つくでしょ?「自分らしさ」とかだよ、たぶん。
その一方で、先日平野啓一郎の「私とは何か―「個人」から「分人」へ」という新書を読んだが、そこでは本当の意味での「自分らしさ」というものは存在しない、と記されていた。
この「分人論」についてはかなり読み物として面白いのだが、具体的な主張についての解説はどうしても長くなるのでAmazonのレビューでも見ておいてほしい。それに実生活で活かしていくのはなかなかに難しいように日々感じている。
では「自分らしさ」というものの存在も怪しくなってきた。「自我」ってなんだ。
ここで星野源に帰ってくる。「星野源のオールナイトニッポン」にて「自信の身に付け方」をティーンリスナーたちに語る星野源。
話脱線しますけど、あのANNの月曜日担当すよ。あの伊集院と真裏で相撲とってるんすよ。凄くないですか星野源。僕が初めて彼を見た頃はtvkのsakusakuで白井ヴィンセント(黒幕)から「モテルバーグ監督」とか言われてたんすよ。タマフルでは「スーパースケベタイム」として番組ジングルを匿名で作ってたんすよ。どうした星野源。
いつか「星野源のオールナイトニッポン」を聴いたティーンエイジリスナーが歳を重ねて、伊集院のラジオにサイコ版空耳アワーみたいなネタを送りつける。もしくは磨き上げたセンスと膨大なサブカル知識を武器にタマフルで「女の子に蹴られたいシチュエーション」を全力で語り合う。そういう未来を私は願っているのです。
はい脱線修正。ラジオで言ってたのは、ざっくり言うと「カッコいい行動して、カッコいい内面になって、ダサい自分を打ち払え」ってこと。そうすれば共鳴しあえたり、磨きあえる人たちが自然と寄ってきて自分に自信が持てるよ、って。
(こういうのを真面目に語るのも良いのよねぇ)
うーむ、なるほど。悔しいけど正しいかも。
ってことでとりあえず、なんでも「自分が好きな事・カッコいいと思う事」から固めていこう。外見→内面の順番だ。「ラブホの上野さん」でも「結局人は見た目で判断するのでございます」って言ってたし。他人は内面なんか滅多に見てくれないのだ。
3月は雰囲気・見た目のリストラクチャー月間としましょう。早速髪型を変えてみました。初めての美容室にも行ってみました。初対面の美容師のお姉さんともスマートに会話しました。「ハチの張りと絶壁アタマがコンプレックスなのでマッシュ系の髪型にしたいです。仕事がスーツなのでビジネスにも使える感じで。必要があればポイントパーマも入れたいですね。あ、前髪は重めで左から右へアシメ風にお願いします。」完璧なオーダー。まあ、髪が短くてマッシュの土台しかできなかったんだけどね。
そのお姉さんはとてもいい人で気さくに会話も盛り上がり、終盤には「お客さん、オシャレとか好きでしょう?」と現在のピンポイントキラーワードを言われて大満足。
あら、こういうの楽しいじゃない。見た目を磨いた(気になった)ら、こんなにも世界が明るくなるのか。
今は他人との面倒くさいしがらみをすべて断ち切っている状態だから気楽でいい、ってのは十分わかってるけど、それでも髪型を変えたり服を買って、オシャレになった気分で「Week End」とか聴きながら、れにちゃんみたいな顔(星野顔)を作って街を歩くだけで気分が晴れる。この手段を知っただけでも大きな進歩。「自我の確立」って個人的には「無条件でテンションが上がる、自分に自信が持てる、自分にとっての安らかな場所を見つける」ことなのかなって結論です。平野要素もちょっと入れてるよ。
ただ、テンションMAXのときに不意打ちで苦手な人に会った時のキョドり体質は改善されていないので、星野君、次はそういうところ話してよ。
追記)たっつんさまのブログ「轟け!サブカル女子」を引用させていただきました。
記録を残したい
25歳から50歳までの25年間を「完璧な四半世紀」に。
約半年の放牧(穀潰し)期間の終了が近づき、社会へひっそりとリデビューを果たす。と同時に、25歳という節目も迎えようとしている。唐突に上記のような事を思い立ったのは、誕生日の1か月半前の風呂場だった。
この半年は自分という存在を考え続けた。ここでその答えのようなものをつらつらと書くのは面倒だし馬鹿馬鹿しい。だが、この「面倒」で「馬鹿馬鹿しい」ことを半年間無限ループのように考え続け、時に落ち込み、時にニヤニヤしていた。
そもそもこれまで私は多くの人、モノ、経験からたくさんのことを学んできた。その集大成たるものがこの半年間だろう。多くのことを学び、咀嚼してきた。だけども、この「学び」を世間様に上手く活かしきれていない気がする。というか、世間様に活かす勇気がないような気がするし、そもそも自分の役にも立てていない。相変わらず自分に自信を持てず、これまでの「学び」を苦悩する自分に酔うための道具に使っているだけなのかもしれない。
これはまずい。社会人として、ひいては人間として生産能力が無さすぎる。このままでは死にきれない。いつも斜に構えて、サブカル通を自称する、青春ごっこ真っ只中のオッサンになってしまう。いやだ、まっとうな大人になりたい。
そう思った私は、節目の年齢を迎えるにあたって、ひとつたいそれたことを言ってみようやってみよう、という気になった。物事を「学び(真似び)」に留まらせず、「習い(慣らひ)」に昇華させるように次のステップに上がる。それが自信の醸成、「大人の余裕」の創出、モテ期の到来に繋がるのではないか。人からなめられないようになるのではないか。
風呂場の私はヒートアップしてきた(五右衛門風呂状態)。
というわけでまずは、自分の中である定義を作ることにした。
①人生の期間を75年とする。
人間75年も生きれば十分だと思う。そこから先があるとしても、人生大きく好転はしないだろうし、主義主張は老害になるだけだ。寧ろご褒美タイムとしてこっそりと味わいたい。
②その75年を三等分し、「吸収期」「交流期」「禅譲期」と名付ける。
この定義において、現在「吸収期」と「交流期」の過渡期に私は立っている。
社会(家族、学校、会社、芸術etc)から何かをテイクし続けるだけの時期を終え、社会に対してギブも行っていかなければいけない時期に来たのだ。これからの四半世紀はギブ&テイクの四半世紀なのだ。
定義は続く。
③25~50歳を「PERFECT QUARTER CENTURY(完璧な四半世紀)」とする。
名前をつけてキャンペーン化した方が楽しい、的な事をみうらじゅんの本で読んだ気がする。そこで、バンドじゃないもん!(通称:バンもん!)が2017年、「PERFECT YEAR 2017」というプロジェクトを立ち上げたことにまるっと乗っかることにした。
perfectyear2017.ponycanyon.co.jp
執筆時点での推しメンは甘夏ゆず(コットンイエロー)。
さあ始まる「PQC」!定義を定めたところで、次はルール作りだ!
と、息を巻く全裸の私。
<ルールその1>25年の間、自分が「したい」ことを記録し、公開し続ける。
ブログ開設。これからは「した」ことよりも「したい」ことに舵を少しずつ切っていく。「考え、行動に移す」四半世紀にする。偉いぞ、俺。
<ルールその2>50歳の誕生日までにwikipedia(もしくは2042年現在のそれに類するもの)に自分のページができていた場合、この記録を出版する。
以前下北沢の居酒屋で熱く語った黒歴史をここで敢えて登場させる余裕だ。wikipediaに載るような人間になりてぇ、と。
<ルールその3>万が一、wikipedia(もしくは2042年現在のそれに類するもの)に自分のページができていなかった場合、全記録を消去し、粛々と禅譲に努める。
そのときはこんな記録を残して死にたくない。先にこの記録を成仏させてあげないと可哀想でしょ、自分よ。
とりあえず、その時その時の「したい」を中心に記録を残すという作業を自分に課し、50歳の時に振り返って面白かったと思える25年を送れるようにしたい、というのが本音のところ。なんとなくはじめてみよう。「記録を残したい」と思ってしまったのだから。
そして2042年、この字面を見て笑っている50歳の自分に会いたい。ゆずポン推しだったなぁ、って。